ある社会学者を名乗る人が、古典の学習について見解を示しました。
「無駄」という主張に対して反論する人は「授業時間が有限であることを忘れている」と批判。
そして、古典を学ぶことについて「外国語を学ぶよりも有益なのか?」と問題提起したそうです。
いやはや、この「比較」はなんとも無教養すぎて話にならない。
私はそう思いました。
古典と外国語(ほとんどの場合は英語)を学ぶのは中学校と高校で。
授業時間は有限であることは当然です。
その中で、将来の学びのために、あるいは考えることの基礎を鍛えるために学ぶ。
その対象が、古典であり英語であり、数学や歴史あるいは化学などです。
あるタレントさんは、古典について「役に立ったことは一回もない」と述べたとか。
教養の基礎を役に立てることができない本人の責任だと思いました。
この次元に至ると、もう笑うしかないのです。
授業時間はたしかに有限でしょう。
だから授業では限られた知識を伝え、学び方を教えるだけです。
あとは、学ぶ側の興味次第。
大学に進めば、もうこれしかありません。
学も学ばないも本人の意思で決めることになります。
それまでに学びの基礎を身につけておく。
中高生の学びを社会に出て役に立つかどうかで必要性を議論するなど馬鹿げています。
そういう議論を平気でやる人が社会学者を名乗る我が国は本当に平和です。
さて、因数分解や三角関数をこの2人は日常生活に役立てているのでしょうか?
複素数を日頃からよく使っているのか?微積分を仕事で役立てている?
それを問えば、数学など役立たない。四則演算さえできればよいと答えるのか?
英語が日常生活で必須の人も多いわけではありません。
なのに、なぜ古典と比較して英語の方が重要であるかのような話になってしまうのか?
不思議な人たちです。
以前にも古典学習不要論を唱えた人がいました。
社会保障の貰い方などを教えるべきだというのですが、これも「アホか?」という主張です。
結論としてわかってきたのは、この種の特定科目不要論を唱える人たちには共通点があること。
それは「無教養」なのです。
教養を身につけていないから、自分たちの主張のバカバカしさに気づけない。
かなり大変なレベルだと思います。
少なくとも「学者」を名乗るのは、看板に偽りがあり過ぎるのではないでしょうか?
★ 「光る君へ」で紫式部を演じる吉高由里子さん
無教養な人たちは「紫式部」と聞いただけで、このドラマを視聴しないのかも。
前作は途中離脱しましたが、この大河ドラマは面白く視聴しております。