我が国の刑法では刑罰として死刑を選択することができます。
一部の犯罪ではありますが、死をもって購うことを被告人に求めます。
これは、公判における審理の結果が無謬であるという前提がなければ無理です。
人の生命を奪う以上、裁判所は事実認定を誤ってはいけません。
しかし、現実はどうでしょうか?
今も再審問題が続く袴田事件で袴田巌氏には死刑判決が出ました。
今の状況では「無罪」となりそうです。
過去にも免田事件、財田川事件、松山事件に島田事件。
死刑判決が確定した後に再審が認められて無罪になっています。
死刑判決ではないものの、足利事件でも被告人だった菅家利和さんは再審で無罪になりました。
このように、裁判所は無謬の存在ではありません。
人が人を裁く以上、そこに誤りが生じる可能性は常にあるのです。
この観点に立つと、死刑の存置には消極的であるべきです。
現に、飯塚事件は誤判の可能性を今も指摘されています。
久間三千年元死刑囚は死刑判決確定後、2年経った2008年に刑を執行されています。
袴田氏の死刑が確定したのは1980年でした。
飯塚事件における執行までの期間の短さには異様なものがあります。
「命をもって購う」のは切腹して詫びる時代の感覚の残滓のように思われます。
江戸時代以前の感覚が今も日本人に受け継がれているのでしょう。
裁判所は誤りを犯す恐れがある。
現に失敗を何度もしている。
だったら、裁判所のミスで無辜の生命が奪われるようなことは防ごう。
普通はこう考えないでしょうか?
でも、世論は死刑存置に反対しません。
寧ろ、残虐な事件が起きると容疑者に対し「死刑にしろ!」という声が沸き起こります。
人の生死に関わる重大事なのに、気軽に「殺せ!」と言ってしまうのです。
その判断に誤りが起きるとは思わない。なんと傲慢なことか。
死刑廃止は喫緊の課題でしょう。
世界の多くの国では廃止されています。
我が国でも速やかに廃止すべきでしょう。
裁判所は絶対に誤らないーは幻想だとわかっているのですから。
サヨク陣営のみなさんは「日本は遅れたダメな国!」と非難する気はないのでしょうか?
さて、選択的夫婦別姓です。
これは、導入しないと人の生死に関わる問題ではありません。
国民の間での議論も高まっていません。
しかし、最近は「政治の季節」ゆえにマスメディアがとりあげています。
明治以降100数十年続いてきた制度に手を入れるのですから慎重に検討すべきです。
こちらはじっくり時間をかけましょう。
特に、「子の福祉」の観点を忘れないようにして。