私が中学校に入学したての頃でした。
バスで10分程度の「進学塾」に通い始めました。
当時は塾通いが流行し始めた頃。
「実績がある」とされていた老舗の学習塾に通うことにしたのです。
そこには、英語を教える「大先生(おおせんせい)」と数学を教える大先生の子がいました。
私はすぐに大先生が笑いのネタを提供してくれることに気づきました。
「え」が先頭になる言葉を発音する際、「ぃ」が入ってしまうのです。
「えんぴつ」は「ぃえんぴつ」、「えいご」は「ぃえいご」のように。
さらに“album”をわざわざ「写真帳」と訳すのです。
その頃、「写真帳」などと表現する人はいませんでした。
当然ですが、“camera”は「写真機」です。
“notebook”は「帳面」。
私は中学校ですぐにこの大先生のモノマネを始めました。
大ウケです。
その塾に通っていないクラスメイトまでが見てきたかのように真似を始めました。
大先生は、「黒板」を「とばん」と呼んでいました。
「それでは、みんな、とばんを見てくれ」
「とばん」?
調べた結果、「塗板」と漢字をあてることができました。
クラス中が「黒板」を「とばん」と呼び始めるのに時間はかかりませんでした。
★ 竹内まりやさんの1981年のアルバム“Portrait”
3曲目に「ブラックボード先生」という曲が入っています。
同じクラスにいた江口君(仮名ですが、「江」の部分はそのまま)は
「ぃえぐちくん」
として人気を博しました。
この江口君も同じ塾の生徒です。
我々は大先生のモノマネで一大ブームを作り上げたのでした。
大先生の発音にも特徴がありました。
“No it isn’t.”
最後の“t”を強烈に発音する癖があったのです。
唾が飛ぶように「トゥッ!!!」
これもウケました。
中学校の英語の先生(J先生)からは
「いまどき『写真帳』とまで訳さなくてもアルバムでいい」
と注意を受けましたが、クラスメイト達は「写真帳」を使いたがりました。
“This is an orange.”
これを「これは1個の温州ミカンです」
と訳した際は、「オレンジというのは・・・」というJ先生の説明が入ってしまいました。
J先生のご実家はミカン山を持っているミカン農家だったことも影響したかもしれません。
ところが、3学期が始まって間もなく塾の大先生が急死。
私にとってはワンダーランド(ネタ元)だった塾が急に面白くなくなりました。
私はその塾をやめてしまいました。
江口君もやめました。
江口君は独学を選び、私は近所のアットホームな塾へ。
私は別の中学校の女の子たちと親しくなり、新しく通い始めた塾を息抜きの場にしていました。
今にして思えば、家にいずに済むから塾に避難していたのかもしれません。
高校受験を経て、私も江口君も東筑高校に進みました。
2人で話したことがあります。
「塾通いは必要やろか」
「行かんでもいいよなあ」
「でもネタが入るし」
「そうだなあ、ネタの仕入れには必要だよなあ」
なんとも不真面目な2人なのでした。