「渡り鳥」と「犠牲フライ」という2つの言葉で選手名が思い浮かんだら通かもしれません。
渡り鳥は、多くの移籍を繰り返した選手。
その中に犠牲フライを打つ名手がいるのです。
その名は「加藤秀(英)司」選手。
2000本安打を達成した大打者の一人です。
阪急ブレーブスの黄金時代に不動の3番打者として活躍しました。
首位打者2回に打点王3回。
1979年のシーズンには三冠王を獲得できそうでした。
その名選手は、35歳になる1983年のシーズンに広島カープに移籍。
セントラルリーグで首位打者を獲得した経験がある水谷実雄選手とのトレード。
加藤選手は病気の影響で不本意な成績に終わりました。
翌年から近鉄バファローズへ。
バファローズ2年目には復活を遂げましたが、年俸の高騰が理由で讀賣ジャイアンツへトレード。
しかし、衰えもあったのか満足な成績を残すことはできずにクビ。
南海ホークスの杉浦監督が救いの手を差し伸べ、ホークスで2000本安打を達成しました。
当時の関西私鉄4球団のうちパ・リーグの3球団すべてに在籍した野球人生。
ベテランの域に達してからの渡り鳥のような移籍の繰り返し。
加藤選手ほどの大選手がこれほど移籍を繰り返した例はありません。
この加藤選手の特徴が犠牲フライでした。
通算105本は野村克也選手に次ぐ第2位。
年間最多犠牲フライを記録したシーズンが6度。これは1位です。
犠牲フライはタイムリーヒットやホームランに比べて地味です。
けれども、確実にランナーをホームに返しているので貢献度は高いのです。
当時は信じられないくらい不人気だったパ・リーグでの活躍が中心。
かつ、阪急ブレーブスは強すぎて不人気(というヘンな時代でした)。
その中で福本豊、山田久志といった名選手に比べて扱いが小さいのは移籍のせい。
「山田が投げて、福本が走り、加藤が打って勝つ」という時代があったのに。
2ストライクをとられるまでは凄まじいフルスイングをする選手でした。
今が現役時代なら、スーパースターとして真の評価を得ることでしょう。
強打者というだけでなくチームに貢献するタイプのプレーヤーとして。