卒業シーズンです。
最近は小学生も礼服や着物を着て卒業式に出るようです。報道で知りました。
私が小学校を卒業する際は、中学校の学生服(女子はセーラー服)を着用していました。
今の華美な服装は、格差社会をみせつけるような感じです。
学校は何もいわないのでしょうか?
さて、卒業につきものといえば、卒業アルバムです。
自分の手元には卒業アルバムが大学時代のものを除いては残っていません。
小中高校のものは、転勤の際の引っ越しか、あるいは実家の取毀しの際に処分したはずです。
「処分したはずです」が、実はよくわからないのです。
そして、それを惜しいとは思わないのが私です。
なぜなのか?
別に各学校に悪い思い出があるというわけではありません。
18歳までの人生に対して、いい思いがないから-ということにしておきます。
では、学生時代の写真を眺めて喜んでいるかというと、それもありません。
それ以前に、眺めることすらないのです。
なぜでしょう? 学生時代は結構楽しかったはずなのに。
そう、後から考えれば楽しかったようなのです。
19歳の後半からは、人生を投げ出し流されるように生きていました。
だからでしょうか、いまひとつ心に残る思い出がないのです。
★ 映画「卒業」(1967年)
ダスティン・ホフマン(右)とキャサリン・ロス
映画のトップクレジットは、この2人ではありません。
キャサリン・ロス演じるエレーンの母ミセス・ロビンソン役のアン・バンクロフトです。
今になって思い起こすと、20~21歳の年にかけて強烈なモテ期がありました。
自分自身が急に磁力を帯びたような感じでした。
この「磁力」をもっと「有効活用」しておくべきだったのか。
しかし、映画を一緒にみて、食事の後に公園でチュッとするような恋愛に馴染めなかった私。
ほとんどの「チャンス」を無駄にしています。
ど真ん中のストレートを見逃して三振するような感じでした。
度々友人から「もったいない」といわれましたが、そうは思いませんでした。
そして、今もそうは思わないのです。
アルバムを見て、その頃の思いに浸ってほろ苦さをかみしめる。
こういうことも一切ないのです。
卒業と同時に祭りが終わったように人がいなくなる。
大学の卒業式にはこういう印象が残っています。
それまで楽しく話していた連中が催眠から醒めたように他人行儀に。
彼ら、あるいは彼女らの視線は、この先の社会人生活にしか向いていない印象でした。
つまりは、友情ごっこに過ぎなかったのでしょう。
実は、お互いがお互いをそれほど必要としていなかった。
これに気づくのが卒業のように思うのです。
だから、今も友人関係が続いている数人との結びつきは貴重であると感じます。
なぜこのメンツと続いているのか?
よくわかりませんが、きっと渡世の義理を大事にする人たちなのでしょう。
★ 義理と人情といえば、東映任侠映画