正直,困惑している
「原則できません」という記事で「原則〇〇」という表現のおかしさに触れました。
同じような表現で「正直,もうマスクを外したいと思っている」という言い方があります。
「正直な気持ちとしては」「正直にいえば」ということを「正直,」で表現しているのです。
話し言葉としてはOKでしょうが,会話表現を除く文章にされると困惑してしまいます。
文章表現における副詞のような「正直」「原則」にかんしては,正直にいうとアホっぽいとさえ思っています。
ですから,原則としてブログでも裁判所に提出する陳述書でもそういう表現をしないことにしています。
お前らを感動させてやる
言葉の使い方といえば,アスリートやアーティストが
「ファンの皆さんに感動を与えたい」
というような言い方をするようになったのはいつ頃からでしょうか?
正直にいうと,「エラそうな言い方だな」と思っています。
「お前らを感動させてやる」の次元です。
たしかにアスリートにしろアーティストにしろ,我々にはできないことをやっているので偉い人ではあります。
が,「与える」というのはどうなのか?今風に言うと「上から目線」の表現です。
ちなみに私はこの「上から目線」という表現も嫌いです。
普通の感覚では「皆さんに感動していただきたい」となるはずですが,言葉に無頓着な誰かが「与える」と言ってしまったのでしょう。
それが広まってしまったようです。
感動を名詞として使うにしても「与える」はやはり傲慢です。「皆さんに感動を届けたいと思います」ではないでしょうか?
しかし,現状は「与える」のオンパレードという様相を呈しています。
誰か勇気をもってアスリートやアーティストに誤りを指摘してあげられないのでしょうか?
この勇気にかんしても,しばしば「与えたい」という人がいて,私は苦笑しています。
そもそも勇気や感動は「与える」ことができるものではないと思います。
人の内面から湧き上がってくるものでしょう。
それを「与える」というのですから,勘違い野郎と呼ばれても仕方がないように思います。
さすがイチロー!
この点について,イチロー氏は現役時代に以下のような指摘をしています。
感動や勇気は誰かが誰かに与えられるものではなく,受け手側がどう感じるかの問題であるーと。
さすがに名人・達人・名匠の域に達した人は違うな,と感じました。