年功序列主義?
ある司法書士の会合で、年齢的には「若手」の司法書士がいいました。
「この世界は、合格年次がすべてです」
私は唖然としてしまいました。
そして、「なるほどな」と笑いそうになったのです。
発言者は、若くして試験に合格し司法書士になっています。
「合格年次がすべて」ということにすれば、自分が上に立つことになるのです。
なかなか巧みな発言ではありませんか。
さて、どうなのでしょうか?
司法書士は個人開業の人が多いのです。
年功序列型の組織ではありません。
飽くまでも個々人が働くという世界です。
つまり、年功序列といった基準は最もあてはまらないのです。
仮に、「稼ぎ」という基準でみた場合は、稼ぐ奴がエライということになります。
開業1年目の司法書士が10年目の司法書士を稼ぎで上回る。
これはあっても全然おかしくないのです。
法律知識にしてもそう。
早く合格したからといって各種法制度に精通しているとは限りません。
依頼者対応能力も同じです。
経験を重ねても稚拙な人もいれば、司法書士経験は浅くとも巧みな人もいます。
一方で、序列の基準として明確なのは合格年次かもしれません。
けれども、狭い司法書士の世界にいない人にはみえない基準です。
すなわち、ほとんど機能しない無意味な基準ということになるでしょう。
プロ野球選手は、年齢で上下関係を構築しています。実績主義ではありません。
1年目からレギュラー選手になっても、10年目の控えの選手に対しては「○○さん」です。
ちなみに、飲食の機会があると先輩が奢るという慣習もあるそうです。
これは、長幼の序というもので、寧ろ、この方が外部からもわかりやすいかもしれません。
以上から合格年次なるものは、①司法書士の能力とはまったく無関係であること、
②合格年次が早い人にとって都合よく使える上下関係構築の基準であるという結論になりました。
「長男なので」
あるテレビ番組をみていると、日本海側の県の人がインタビューを受けていました。
「大学を出たら郷里に帰って来て働いてくれ、と親に言われたので」(郷里で働いている)
「自分は長男なので」
長男は家を継ぐーこういう考え方は今も根強く残っています。
そもそも家を継ぐ制度は法的にはもう存在しません。
でも、世間ではこういう感覚なのです。
「長男だから」
の後には、
「養子に行かせるわけにはいかない」
とか
「早く嫁を貰って跡継ぎを作ってもらいたい」
といった「親」の言葉が続くことは今も普通にあるのです。
息子の妻に対し、
「早く孫の顔を見たい」
「次は男の子を」
みたいに望んだという話もよく聞きます。
野田元首相は選択的夫婦別姓に対する反対者を「ノイジ―マイノリティ」と呼びました。
野田元首相の主張の都合でそう呼んだのでしょう。
大多数の人は選択的夫婦別姓を求めている。一部のうるさい反対論者など蹴散らせ!
印象操作というほかありません。
活発でノイジ―なのは賛成論者です。
果たして、その声が高まっているのか?世間が求めているのか?
ある独法勤務の研究者は「キャリアの分断」を強調していました。
しかし、その主張がまやかしであることは以前の記事で述べたとおりです。
我が国の家族観は、今も「家」を意識しているのです。
その証拠が「長男なので」という冒頭の発言です(発言者は42歳でした)。
今の時代に長男、二男、長女に序列を与え区別するのか?
私はそう思うのですが、意外に多くの人は「長男」を強く意識しています。
その状況下で家族制度の根幹に手をつけるというのは愚かなこと。
制度だけ導入して「欧米に対する遅れをとりもどした」といいたい人がいるのは残念です。
適期を待つーなぜできないのでしょう?
ま と め
以上の二つの例から導くことができる結論は・・・
人は、自分の主張や立場に都合のよい話をする生き物であるーということになります。
そして、そういう話の裏にある思惑は見破ることができるレベルなのでした。
特に交渉を生業としていると、相手の思惑に気づく必要性が高いのです。
交渉に携わる点では、司法書士も政治家も同じだと思うのですが、例外もあるようで。