自分を褒める
自分を褒める―私はこれが苦手です。
マラソンランナーの有森裕子さんがバルセロナ五輪で銅メダルを獲得した際に
「自分を褒めたい」
と言ったことについては違和感はありませんが,自分自身のこととなるとどうも無理なのです。
自分で自分を褒めるようなことをした覚えがないのですが,これは自己肯定感がないからかもしれません。
だからといって,自分をダメな人間として否定的にみるようなことをしているわけではありません。
自己アピールであれば,事実だけを言うことで済みます。だからそう難しくは感じません。
しかし,「褒める」段階になれば,自分で自分を評価することになります。
これをするのは至難の業です。
評価は他人がするもの―こういう考えがあるからかもしれません。
自画自賛
実際に自分を褒めまくる=自画自賛を絶えずやっている人がいますが,そういう人と話すのは面倒です。
何が面倒かというと・・・
そういう人は,多くの場合,他人と比べて自分が優れていると主張するのです。
そうなると,比較対象となる他人の悪口を伴う話になり,聞くに堪えない内容になります。
そして,そこには事実以上に話が大きくなっているようなエピソードが盛り込まれます。
話を大きくした結果,他の発言との間に矛盾が生じているケースもままあります。
こういう話を聞かされる時間は私にとっては無駄でしかありません。
ですが,一応「ほう,それは凄いですね」と話を合わせておきます。
そういう場合に自画自賛をする人はどう感じているのでしょう?
「引っかかったな」と喜んでいるのか?
それとも自分の大風呂敷に自分まで騙されてしまい,共感の言葉に感激しているのか?
おそらく,こういう人たちは自画自賛の言葉で自らを慰めているのではないでしょうか。
そうしないといけないくらいに「自分は正当に評価されていない」という思いが強いのではないか。
そして,実は自分に自信がないのだろう。
私はそういうふうにみています。
だから「あなたの話には矛盾がある」とか「前回の話と違いますね」みたいな指摘をするのは忍びないのです。
こう書いてみたらわかったことがあります。
私は性格が悪いなぁ,ということです。
「はいはい」と頷きながら心の中では冷笑というのはどうみても良い性格ではありません。
他人からの評価は正しいのか?
私は両親から褒められた記憶がありません。
母親からは謗られるばかり。
父親も褒めてくれたことはありませんが,少なくとも謗るようなことはありませんでした。
小中学校では教師からそれなりに褒められました。
高校時代になると教師はいちいち褒めてはくれませんが,それなりに肯定的な言葉をかけられました。
大学時代も同じです。
次に他人からの評価にさらされることになったのは,社会人になってからです。
所謂人事考課というもので「採点」されます。
ところが,これがどうみても好き嫌いが中心で,実態とはかけ離れたものでした。
私は・・・さほど熱心に仕事をしていないのに評価が高かったのです。
当時の残業をいとわない働き方が尊ばれるような風潮の中で,残業をできるだけせず,
上司とのアフター5のおつきあいも断り,休日出勤など絶対あり得ないというようなスタイルだったのに。
おそらく単なる第一印象だけなのです。「コイツはちゃんとやる」と思い込まれたのだと思います。
組織では一度固定されたイメージがずっとついて回ります。だから間違えもかなり多く生じるのです。
でも,人が人をみて評価する以上,そこに誤りが生じるのは当然だと思います。
評価などどうでもよい
以上から一応の結論を出すとすれば,他人からの評価などどうでもよく,気にするに値しないということです。
それがプラスの評価なら3割ダウンくらいの内容で聞いておくのが無難ではないでしょうか。
マイナス評価であれば,そこにはマイナス評価をする人の願望と自分自身を優位に置こうとする心理があるはずです。
それをいちいち気にするようでは疲れ切ってしまうでしょう。
やるべきことをやっておけば,客観的な評価は自ずとついてくるものです。
多少過剰なものを含みつつも,おそらくはややプラスの評価になるでしょう。
そのときには自分自身でも「まあ,よくやったかな」くらいには思えるのではないでしょうか。
そして,それで十分だと思うのですが,いかがでしょう?