私は日本映画をよくみます。
なぜかというと、外国映画では表現のニュアンスがわからない場合があるから。
英語のセリフを聞き取ることができても、微妙なニュアンスまではわかりません。
演技がうまいかヘタかも外国人俳優にかんしてはなんともいえないのです。
その点、日本映画については安心してみることができます。
その中でやくざ映画を選ぶのはなぜか?
任侠映画のおもしろさ
任侠映画と呼ばれるのは、鶴田浩二さんや高倉健さんが主演した映画。
時代は大正や昭和初期。
「悪のやくざ組織」に「正義のやくざ」が立ち向かうという話です。
絵に描いたような勧善懲悪の内容。
悪の理不尽な仕打ちを耐え忍ぶ主人公に感情移入できる映画。
つまり、非常に単純なストーリーながら気持ちを込める観賞ができるのです。
そして、最後に堪忍袋の緒が切れた主人公が悪の親分を斬ります。
日頃からストレスがある人は、これに喝采する。
自分には決してできないことを映画のヒーローがやってくれるのです。
同じパターンの繰り返しですが、任侠映画は大ヒットしました。
★ 有名な横尾忠則作のポスターがパッケージになったDVD
実録やくざ映画
しかし、ちょんまげをつけていない時代劇である任侠映画は飽きられます。
そして、登場したのが実録やくざ映画です。
そこには善のやくざとか悪のやくざといった分類はありません。
ひたすら自分の利益のために必死になるやくざが描かれます。
主人公は多少は格好よく描かれることもありますが、基本は素の人間像を描くのです。
これが面白い。
狡猾で自己本位で、他人を裏切っても平気。
友情など架空の話のように思えてしまいます。
金銭欲、名誉欲、さらには性欲までひたすら人間の素の姿を描きます。
濃厚に凝縮したような人間関係がみえてくるのです。
また、人は争うことをやめられず、暴力衝動を秘めた存在であることも暴き出します。
「仁義なき戦い」の大ヒットにより任侠映画は消えました。
しかし、実録やくざ映画はネタ切れが早く、数年で終焉を迎えてしまいました。
★ 「仁義なき戦い」第1作めのラストシーン
映画の愉しみ
こうしてみると、やくざ映画とひとくちに言っても、違いがあることがわかると思います。
そして、それぞれに愉しみがあるのです。
任侠映画は人の理想像を描こうとしていました。
義理と人情の板挟みになれば「渡世の義理」を選ばざるを得ない。
それでも人情を忘れない。
主人公のやくざは思いやりに満ちており、女性に素直に思いを告げることを避ける。
自分のようなやくざ者とは幸せになれない、と。
実録映画は逆。
人の醜さをとことん描きました。
それぞれ観賞価値があるのです。
そして、自分自身が「その世界」の人間でないことにホッとしたり。
やくざ映画は下品か?
ところが、やくざ映画が好きだというだけで蔑まれる傾向があります。
面白いことに、日本のやくざ映画を白眼視する人も
「ゴッドファーザー」
にかんしては手放しで褒めるのです。
★「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドとロバート・デュバル
あれも完全なやくざ映画です。
親分と子分は疑似親子関係。
殺(と)られたら殺(と)り返す点も同じ。
私が「べルモンドやドロンのフランス映画が好き」というと
「さすが、上品ですね~」
という反応があります。
ベルモンドやドロンの主演作の多くはギャング映画です。
★「ボルサリーノ」のベルモンドとドロン
フレンチやくさ映画だと「上品」らしいのです。
日本のやくざ映画だと下品?
なんとなく自国を卑下しすぎのような(笑)。
表面しかみない
結局のところ、下品とか上品といっている間は映画の表面だけをみているのでしょう。
流血が多いから下品とかその次元です。
人間像がいかに描かれているか?
この点に注目すれば、「仁義なき戦い」は「ゴッドファーザー」にひけをとらない作品だと感じるはず。
そして、やくざ映画の中にあるやくざの哀しみにも気づいてほしいもの。
セリフや表情のニュアンスは日本映画なら誰でもわかるはず。
やくざ映画で俳優さんたちは実に微妙な表情を作ります。
何をいわんとしているのか?
味わい方をちょっと変えてみれば、やくざ映画が一種の文芸映画であることに気づくはずです。
★「鬼龍院花子の生涯」は女性文芸映画ながらベースはやくざ映画